下馬 (作法)

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下馬碑
朝鮮語
ハングル하마비
漢字下馬碑
発音記号
RR式hama bi
MR式hama pi
日本語
漢字 下馬碑
ひらがな げばひ
カタカナ ゲバヒ
Transcriptions
ローマ字 geba hi
ベトナム語
ベトナム語bia Hạ mã
ハントゥ碑下馬
満洲語
満洲文字 ᠮᠣᡵᡳᠨ ᠴᡳ
ᡝᠪᡠᡵᡝ
ᡝᠯᡩᡝᠩᡤᡝ
ᠸᡝᡥᡝ
アブカイmorin-qi ebure eldengge wehe
メレンドルフmorin-ci ebure eldengge wehe

下馬(げば)は、貴人の前で、社寺の境内で、また城内に入る前に、敬意を表すために、騎(の)っているウマから下りることである。同じように輿車から降りる場合は、「下乗」という。

概要[編集]

法曹至要抄」には、三位以下の者が路上で親王に会えば下馬するのを初めとして、位階に応じてそれぞれ下馬の令制を載せ、有位者でない場合も賤者、少者は貴人、老人に対して同様にすべきであり、令制に背くと笞罪に処せられたという。これがいつまで、どの程度行われたか、明らかでない。「貞丈雑記」には、「輿にめしたる人に行あひ、又は人の犬追物、笠懸、やぶさめ、大的、小的など射らるる場所近き辺を通るとき、又は野山にて幕などうち遊興せらるるあたりを通るとき、または神社仏寺の前を通るとき、また三職などの門前を通るとき、または川狩鷹狩など人のするところを通るとき、また鷹すゑたる人鵜つかひに行あひたるとき、いづれも我知らぬ人なりとも、必ず下馬して通る也」とあり、武家時代を通じて、礼儀として厳存した。訪問においては、参朝はいうまでもなく、宮門で下乗、下馬をさせ、寺社もまたそれに準じた。

江戸時代には、城外に「下馬札」を立てて、城中では将軍以外はその身分に応じて下馬の制限を受けた。例えば、親王、大納言以上でも、中門で下乗した。幕末、下馬、下乗の廃れたが、明治維新後、明治元年閏4月の下乗下馬の制から始まり、明治12年までに変遷はあるが、宮城、離宮、諸官省、社寺などに一定の制があった。明治21年に諸官庁においては便宜に任され、滅んだ。

下馬札[編集]

下乗、下馬には成文があるが、下馬札の成文は見当たらない。その起源は明らかでないが、「大唐西域記」に、釈迦が霊鷲山で説法する時、退凡下乗の卒塔婆を建てたことが見える。「一話一言」によれば、正安3年、権大僧都永瑜が建てた高雄の下馬碑が最古であるという。江戸城の諸門外には下馬札が立てられ、社寺にもあった。明治2年8月、神宮、官国幣社に皇族の参拝のある時、下馬下乗の場所を指定するよう教部省から令されている。その規定や書法については江戸時代、青蓮院に筆法が伝わるなど取り扱いがやかましかったという。

ギャラリー[編集]

関連項目[編集]